『地獄の季節』


ウィキペディアによると、1873年に詩人ヴェルレーヌとともにロンドンに滞在していた4か月の間にランボーによって執筆された9編の散文詩、とある。

 ランボーとヴェルレーヌの関係は、ヴェルレーヌ夫人によると不道徳なものがあるとされているが、私にはよくわからない。己が最も大切と考える文学や詩作で火花のようにぶつかり合ったのならば、肉体面でも惹かれる可能性はあるかもしれない、ということは想像がつく。

 性別とか年齢とかは本当に些細なことで、魂と魂がぶつかったときに、相手を取り込みたくなるという衝動は、恋とか愛とかありきたりな言葉では足りなくて、ランボーとヴェルレーヌだけにしか分からないものなのではないかな、と思ってしまう。

 この二人の関係をテーマとして、レオナルド・ディカプリオがランボーを演じた『太陽と月に背いて』という映画も、この詩集とセットで私の記憶に刻み込まれている。

 『詩』という単語で何を連想するか?
 例えば小学生の教科書にのっている「のはらうた」や「雨ニモ負ケズ」や、「生きる」だろうか。有名な詩はいくつもあって。ポエムという単語もあって。古くは和歌とか百人一首とか。

 小説にしても、詩にしても、世の中にドン、と広まっているものには、どこかしら安全安心なイメージがある。これは、皆が読んでいるから安心なもの、とでもいうような。

 でも、この『地獄の季節』に安全安心なものは一つもなくて、『こころ』にも『人間失格』にも『痴人の愛』にも、安全安心なものは一つもないと思うけど、読めば読むほど不安になるし、自分の居場所を疑いたくなるし、存在自体を疑いたくなる。だから、生活の定まってしまった大人には危険なのではないか、読んでも共感できないのではないかと思ってしまう。

 『地獄の季節』の言葉の一つ一つ、言葉の組み合わせの一つ一つがハッとするし、じっと足を(目を)留めさせられるし、じっと考えたくなる。ランボーの心から生まれた、組み合わされた、どこまでも誠実な単語たち。

 『地獄の季節』に並ぶ単語の一つ一つは濃いグレーとか黒い色(悪魔とか、地獄とか)の印象。
 暗い暗い言葉だらけなのだけれども、読み終わって心に残るのはなぜか自然の明るさ。

 『太陽と月に背いて』の映像とセットになっているからかもしれないけど、海の青さ、空の青さ、太陽の光、という自然描写。

 ランボーは16歳で詩作して、ヴェルレーヌと決別後はアデン(現イエメンの都市)やアビシニア(現エチオピア)で貿易商として暮らし、37歳で生涯を閉じた。

p.45
また見つかった、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。

独り居の夜も
燃える日も
心に掛けぬお前の祈念を、
永遠の俺の心よ、かたく守れ。

人間どもの同意から
月並みな世の楽しみから
お前は、そんなら手を切って、
飛んで行くんだ……。

ーーもとより希望があるものか
立ち直る筋もあるものか、
学問しても忍耐しても、
いずれ苦痛は必定だ。

明日という日があるものか、
深紅の燠の繻子の肌、
それ、そのあなたの灼熱が、
人の務めというものだ。

また見つかった、
ーー何が、ーー永遠が、
海と溶け合う太陽が。

「地獄の季節」『地獄の季節』より ランボオ作 小林秀雄訳 岩波文庫 
1938年 第1刷
2009年 第72刷 改版発行


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