『海からの贈物』


 この本、装丁がすごく素敵。
 手離したくない、って思った笑

 昔から有名な本だから、タイトルは知ってたし、
 著者がどういう人かというのも知ってはいた。

 なんでだろう。
 貝の本だと思っていたのかも笑
 あつもりで貝を拾うのは大好きなんだけど…
 自然科学に苦手意識があったからかなぁ。
 (自然科学の本じゃないし笑)

 中味をパラパラと見てみたら、
 あ、読みたい、って思ったのだけど、
 その時は読みさしの長編があったので、
 この本はやむを得ず手放して笑、失念してた。

 先日他の方が記事で言及されているのを拝読して、思い出せた。
 そうだ、これ読みたいと思ってた!と。

 電子書籍版はなかったので、リアル本が届くのを待つ。
 この辺も、この本らしくていい笑
 もう、すっかりこっち寄り笑

 届いた!素敵な装丁。中身も滋味豊か。紹介していきますね!

 この本は、序、浜辺、ほら貝、つめた貝、日の出貝、牡蠣、たこぶね、幾つかの貝、浜辺を振り返って、の合計9章に分かれています。

 その中から、一部を紹介します。

目次

  1. ほら貝
  2. つめた貝
  3. たこぶね
  4. 幾つかの貝
  5. 浜辺を振返って

ほら貝

p.21
ーー私はなるべく「恩寵とともに」ある状態で生きて行きたいのである。(略)
私は或いはプラトンの『パイドロス』に出て来る、「外面的な人間が内的な人間と一つになることを」というソクラテスの祈りと同じものを求めているのかもしれない。私はそういう形で恩寵の状態に達して、神の心に適うように人に与え、仕事をしたいと思う。

『海からの贈物』 アン・モロウ・リンドバーグ 吉田健一訳 新潮文庫 1967年

 睡眠がバッチリ取れて、余計なものを食べていなくて身体が内側から整っていて、心も穏やかで周囲の人たちと調和したいと思う時が、私にとって「恩寵とともに」ある状態。いかに、常に「恩寵とともに」ある状態で生きていけるか、を大事にしている。

 人に寄っていく時期と、自分に寄っていく時期があって笑、どっちも大切なんだけど、どっちかに偏りすぎると、ちょっと苦しくなる。

 今どっちだ、とか、あまり気にしないようにしてはいるけど、仕事が休みの日は、なるべく予定も入れないし、人とも会わない。
 仕事では、常に人に会っているから。

 そんなことを、読みながら再確認した。

つめた貝

p.38
「ここ」と「今」しかない時、子供、或いは聖者のような生き方をすることになり、毎日が、そして自分がすることの一つ一つが時間と空間に洗われた島であって、どれもが島も同様に、それだけで充足した性格を帯びる。そういう空気の中では、人間も島になって充足し、落着きを得て、他人の孤独を尊重してこれを犯そうとせず、別な一個の個人という奇蹟を前にして自然に一歩後へ足を引く。「人間は島ではない」とジョン・ダンは言ったが、私は我々人間が皆島であって、ただそれが同じ一つの海の中にあるのだと思う。

『海からの贈物』 アン・モロウ・リンドバーグ 吉田健一訳 新潮文庫 1967年

 コロナが流行ってから、人と人の距離は本来あるべき距離に正された気がした。喫茶店での座席の位置とか、人一人分空けるぐらいで、本来はちょうどいいのかな、って。マスクをしていて、顔も見えないぐらいでちょうどいいのかな、って思った。人と話したい時は、「今から話しに行きますよー」ぐらいのかけ声をかけて、ドアをちょっと開けておいてもらう、みたいな笑。常に、話しかけたい時は、コンコン、ってするような笑

 まあ、でも、親しい人たちと同じ空間で漫才のようにポンポン矢継ぎ早に重ねていく会話も楽しいし、親しい人とはもちろん近くていい。

たこぶね

人と人とのこういう関係は踊りと同じ様式のもので、これを支配している規則も同じである。二人のものは同じ一つの律動に従って自信を持って体を動かすから、手をしっかり握り合っている必要はなくて、モーツァルトの舞曲のように、動作は複雑であると同時に陽気で早くて、そして自由なのである。

『海からの贈物』 アン・モロウ・リンドバーグ 吉田健一訳 新潮文庫 1967年

 波長が合う合わないってある。なんとなく、相手の考えていることが分かって、テレパシーのように気持ちが伝わってしまうので、お互いに言葉をかける必要もなくて、目線とか、ちょっとした仕草で十分に意思が通じてしまう。
 職場でも、仲間とこういう風になれると、言葉がどんどん少なくなって、かといってコミュニケーションが足りないわけでもなく、音だけで色々わかるから笑、妙にシーンとしてしまったりもするけど、そこには安らぎさえ感じられることがある。こういうシーン、って好き。 

幾つかの貝

一本の木は空を背景にして意味を生じ、音楽でも、一つの音はその前後の沈黙によって生かされる。蝋燭の光は夜に包まれて花を咲かせる。つまらないものでも、回りに何もなければ意味があって、東洋画で白紙のままにされた片隅に、秋草が何本か書いてあるのもその一例である。

『海からの贈物』 アン・モロウ・リンドバーグ 吉田健一訳 新潮文庫 1967年

余白の美、ってある。花を生けると、花にふさわしい空間を急いで作る笑。
花を生けること、花の周りに空間を作ることはセットで、セットにしないと花がかわいそうなことになる。(家の中も断捨離しないと!)

浜辺を振返って

女は家庭という一つの狭い範囲で、その家庭を成している一人々々に認められる独自のものを、また、今という時間の自然の姿を、また、ここという場所の掛け替えのなさを決して忘れたことがない。そしてこれが生活の基本であり、そしてまたもっと大きな、多数とか、未来とか、世界とかいうものを作っている要素なのである。

『海からの贈物』 アン・モロウ・リンドバーグ 吉田健一訳 新潮文庫 1967年

1人は世界につながっている。家庭は世界につながっている。
3人なんて、多分宇宙笑。
だから、1人の人とわかり合えれば、宇宙の人と分かり合える可能性がある、と思う笑
いや、真面目に!


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